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最高裁判所第三小法廷 平成4年(オ)701号 判決 1996年3月05日

上告人

田中和枝

右訴訟代理人弁護士

松本光寿

被上告人

右代表者法務大臣

長尾立子

右指定代理人

増井和男

外一〇名

主文

原判決を破棄する。

被上告人の控訴を棄却する。

控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。

理由

上告代理人松本光寿の上告理由について

一  本件は、交通事故の被害者である上告人が被上告人に対して自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という。)七二条一項前段の規定(以下「本件規定」という。)に基づき後遺障害による損害のてん補を請求するものである。被上告人は、上告人が本件規定による請求権を有していたこと及び上告人に少なくとも自動車損害賠償保障法施行令(以下「施行令」という。)別表の第一二級一四号に該当する後遺障害が存することを認めた上で、右請求権の時効による消滅を主張している。

二  原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

1  上告人は、昭和五九年三月二四日午後六時五五分ころ、鳥取県岩美郡国府町大字宮下三一三番地先路上を歩行中に自動車に衝突された。右自動車は、そのまま走り去り行方不明となった。上告人は、本件交通事故により入院治療二四〇日、通院治療三箇月を要する左脛骨膝関節内骨折、顔面挫創等の傷害を受け、昭和六〇年二月二日に症状固定し、左膝の関節や外貌などに後遺障害が残った。

2  西尾壽男は、本件交通事故直後の午後七時前ころ、相当程度酒に酔った状態で自動車を運転して本件交通事故現場付近に所在する自宅に帰り、そのまま寝入った。西尾の妻は、西尾が飲酒運転をしてきたこと、西尾の自動車を見分したところ軽度の損傷がみられたこと、救急車のサイレンを聞いたことから、西尾が交通事故を起こしたのではないかと心配して現場付近を捜査中の警察官に届け出た。警察は、西尾を業務上過失傷害事件等の被疑者として捜査を開始した。西尾は、本件交通事故当日以来一貫して司法警察員及び検察官に対して本件事故当時の記憶がないと供述したが、昭和五九年四月二三日付け司法警察員に対する供述調書及び同六〇年二月四日付け検察官に対する供述調書においては罪を認める旨の供述をし、その間二度にわたり上告人を見舞って謝罪し、見舞金を送った。しかし、西尾は、昭和六一年二月二七日、業務上過失傷害事件については嫌疑不十分のため不起訴処分となった。

3  上告人は、西尾の締結した自動車損害賠償責任共済契約に基づき農業協同組合から治療費相当額の給付を受けていたが、昭和六一年二月二七日に西尾について不起訴処分がされたことにより右治療費の給付を打ち切られ、その後農業協同組合に対して右責任共済契約に基づき後遺障害による損害賠償額の支払も請求したが、同年五月八日に支払を拒絶された。上告人は、西尾が本件交通事故の加害車両の保有者であると考えていたため、昭和六二年一月二〇日に西尾を被告として本件交通事故による後遺障害に係る損害賠償として五二二万円の支払を求める訴えを鳥取地方裁判所に提起した。同裁判所は、同六三年一二月二三日、西尾が本件交通事故の加害車両の保有者であるとは認め難いとの理由で上告人の請求を棄却する旨の判決を言い渡し、右判決は昭和六四年一月六日の経過により確定した。

4  上告人は、平成元年二月六日に政府に対して本件規定に基づき後遺障害による損害のてん補の請求をしたが、同二年二月六日に消滅時効の完成を理由に右請求を却下する旨の通知(同年一月二四日付け)を受けたので、同年二月一三日に本件訴訟を提起した。

5  自動車安全運転センターが上告人の症状固定後に上告人に対して交付した本件交通事故についての交通事故証明書には、西尾が事故当事者として記載されていた。本件交通事故の加害車両の保有者は、現在のところ明らかでない。

三  原審は、右事実関係の下において、次のとおり上告人の本件請求権は自賠法七五条の定める二年の時効期間の経過により消滅したと判断して、上告人の請求を棄却すべきものとした。

1  本件規定による請求権は、不法行為による損害賠償請求権とは異なり、その消滅時効は民法一六六条一項の規定により権利を行使することを得る時から進行する。

2  自動車損害賠償保障法施行規則二七条二項二号は、本件規定に基づき政府に対して損害のてん補の請求をするには本件規定により政府に対し損害のてん補を請求することができる理由を証するに足りる書面を添付しなければならないと定めているが、右の書面は自動車安全運転センターの交付する交通事故証明書などの公的文書に限られるものではないし、そもそも政府に対する右請求手続を経ずに本件規定に基づく損害のてん補を求めて訴えを提起することも可能であるから、自動車安全運転センターの交通事故証明書に西尾が事故当事者として記載されていたことが本件規定による請求権の行使についての法律上の障害に当たるということはできない。

3  上告人には本件交通事故の加害者が自白をした西尾であると考えたことについて無理からぬ事情があったから時効は進行しない旨の上告人の主張は、本件の事実関係や時効制度の趣旨に照らして採用することができない。

4  以上によれば、上告人の本件請求権は、症状固定の翌日である昭和六〇年二月三日に権利の行使が可能となったもので、同日から時効が進行し、昭和六二年二月二日の経過により消滅した。

四  しかしながら、原審の右三の3及び4の判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

1  まず、上告人の本件請求権が症状固定の翌日である昭和六〇年二月三日に権利の行使が可能となった旨の原審の判断は是認することができない。

けだし、(一) 上告人は、少なくとも昭和六一年二月二七日までの間には西尾の締結した自動車損害賠償責任共済契約に基づいて治療費相当額の給付を受けていたものであり、右の責任共済契約に基づく治療費相当額の給付は、実質的には、西尾による上告人への治療費相当額の賠償金の支払と評価することができる、(二) そうすると、他に特段の事情の認められない本件においては、西尾は、右(一)の期間中には上告人に対する自賠法三条の責任を自認していたものと解される、(三) したがって、昭和六〇年二月三日の時点においては、上告人の本件請求権は、本件規定の定める要件を欠くため、その行使が不可能であったといえるからである。

2 そもそも、ある者が交通事故の加害自動車の保有者であるか否かをめぐって、右の者と当該交通事故の被害者との間で自賠法三条による損害賠償請求権の存否が争われている場合においては、自賠法三条による損害賠償請求権が存在しないことが確定した時から被害者の有する本件規定による請求権の消滅時効が進行するというべきである。

けだし、(一) 民法一六六条一項にいう「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とは、単にその権利の行使につき法律上の障害がないというだけではなく、さらに権利の性質上、その権利行使が現実に期待のできるものであることをも必要と解するのが相当である(最高裁昭和四〇年(行ツ)第一〇〇号同四五年七月一五日大法廷判決・民集二四巻七号七七一頁参照)、(二) 交通事故の被害者に対して損害賠償責任を負うのは本来は加害者であって、本件規定は、自動車損害賠償責任保険等による救済を受けることができない被害者に最終的に最小限度の救済を与える趣旨のものであり、本件規定による請求権は、自賠法三条による請求権の補充的な権利という性質を有する、(三) 交通事故の被害者に対して損害金の全部の賠償義務を負うのも加害者であって、本件規定による請求権は、請求可能な金額に上限があり、損害額の全部をてん補するものではない、(四) そうすると、交通事故の加害者ではないかとみられる者が存在する場合には、被害者がまず右の者に対して自賠法三条により損害賠償の支払を求めて訴えを提起するなどの権利の行使をすることは当然のことであるというべきであり、また、右の者に対する自賠法三条による請求権と本件規定による請求権は両立しないものであるし、訴えの主観的予備的併合も不適法であって許されないと解されるから、被害者に対して右の二つの請求権を同時に行使することを要求することには無理がある、(五) したがって、交通事故の加害者ではないかとみられる者との間で自賠法三条による請求権の存否についての紛争がある場合には、右の者に対する自賠法三条による請求権の不存在が確定するまでは、本件規定による請求権の性質からみて、その権利行使を期待することは、被害者に難きを強いるものであるからである。

本件においては、上告人と西尾との間で本件交通事故の加害車両の保有者が西尾であるか否かをめぐって自賠法三条による請求権の存否についての紛争があったところ、上告人の西尾に対する敗訴判決が昭和六四年一月六日に確定したので、上告人の本件請求権の消滅時効は、その翌日である同月七日から進行し、本件訴訟が提起された平成二年二月一三日に中断されたことになるから、上告人の本件請求権が時効により消滅したということはできない。

五  以上によれば、原判決には法令の解釈適用を誤った違法があり、右違法が判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。論旨はこの趣旨をいうものとして理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、前記事実関係の下においては、上告人の本件請求を施行令別表の第一二級に相当する二〇九万円の限度で認容した第一審判決の結論は正当であるから、被上告人の控訴を棄却すべきである。

よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官大野正男 裁判官園部逸夫 裁判官可部恒雄 裁判官千種秀夫 裁判官尾崎行信)

上告代理人松本光寿の上告理由

原判決には、本件消滅時効の進行に関する法令の解釈に誤りがあることは明らかである。

一 訴外西尾壽男に対する請求訴訟

上告人は、本件ひき逃げを自白しかつ上告人を見舞った右訴外人を相手どり損害賠償請求訴訟を提起したのであるが、かかる訴訟提起について上告人には何らの落度は存しない。訴提起時において、同訴外人を当事者とする交通事故証明書はそのまま維持されていたのであるし、それまでの経緯からみて同訴外人をひき逃げ犯でないと断定する資料は上告人には与えられていなかったからである。原判決は、かかる場合であっても、「とりあえずひき逃げ事故として手続を進め、被害者の救済を図っていることが認められる」としている(かかる制度の運用がなされていることを上告人は知るしるよしもなかったが)が、被害者救済の観点からかかる措置がとられることは結構なことではあっても、かかる措置を被害者に「強要」することは甚だ酷なことといわなければならない。本件のような事実関係のもとでは、上告人が前記訴外人を犯人と思うのは無理からぬことであるから、一方において同訴外人を相手どり訴訟をしながら、他方において念の為政府に損害の填補を求めるなどということは、一般人の思いつかないことであって、原判決の態度は、一般人に対し通常期待し得ないことを要求するというべきである。(なお、上告人が前記訴外人と国を共同被告として、択一的に責任を問う請求訴訟は民事訴訟の原則からみて許容されないことも考慮に入れなければならない。)

二 ひき逃げ事故

自賠法のひき逃げ事故についての損害填補制度は、交通事故発生後相当期間犯人が検挙できない場合の通常の例を想定して消滅時効期間を定めているのであって、本件はまさに特殊な例である。国は捜査権を独占しており、上告人には何らかかる権限を有しないのであるが、いったん捜査機関が犯人と断定して公的証明を発しておきながら、その捜査の内容と推移をうかがい知る立場にない上告人(上告人は前記訴外人が不起訴処分になったこともその理由も知らされていない)に、本件をひき逃げ犯人不明と断定してその後の手続を要求することは、上告人に不可能を強いるものである。原判決は、仮に上告人が直ちに不起訴処分を知りこれを不服として検察審査会に対し、不服申立をしていたとしても消滅時効が進行すると解されるのであろうか。誠に不可解といわなければならない。上告人が国に損害填補を求め得るのは損害の一部であるのに対し、ひき逃げ犯と思われる前記訴外人には損害の全賠償を求め得ることも忘れてはならない。

三 結論

本件事故においては、前記訴外人が自首せず、あるいは警察が同訴外人をひき逃げ犯として検挙しなければ、上告人は当然国から損害の填補を受けているはずであるが、結果的には捜査の誤りによって不利益を受けようとしているのである。原判決は、かかる視点からはほど遠い「無情」判決であって、到底一般人の法感情に合致するものとはいえない。貴裁判所におかれては本件全記録を精査のうえ、上告人の無念を晴らしていただくよう切望する次第である。

(準備書面の添付)

本件では、基礎になる事実関係等が重要な意味を有するので、別訴及び本訴において上告人が提出した準備書面の写しを添付することとする。

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